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ぼくは常々思っている。この世の中は、なんてところだろう!
そして、今回取り上げる作品の主人公は、オヤジが末期、嫁がテレクラ中毒、息子はひきこもりで、自分はリストラ。
人生は、最悪だ。
もう、死んじゃいたいなあ。主人公は思う。それも、絶望に満ちてのハイテンションな、ある種アグレッシブな死にたさじゃなくて、なんかもう無抵抗になって、どうでもよくって、電池が切れたみたいに、生きていく気力が無くなってる。
そんな風に、コンビニでおにぎりとウィスキーを買って、あー、もう死なないかな~っ、なんて思っている時、急に見知らぬワゴン車の中に自分がいることに気付く。
同乗者は、見知らぬ親子。しかもどうやら、二人はすでに死んでいるらしい。
何かの発作か、後ろから何かにやられたのか、とにかく自分が死んだのだと思う主人公を乗せて、ワゴンは彼の過去の景色へと走って行く。ま、一種走馬灯と言った所か。
そんな中で、自分と同じ歳の父親がワゴンに乗ってきて……、という話なのだが、ようするにデロリアンのたぐいだ、この車。
タイムマシン物には必ずルールがあって、過去に干渉してはいけないとか、過去の自分に出会ってはいけないとかってなってて、未来が変わることをタブーとしている。
だが、流星ワゴンの場合は心配ない。過去も未来も変わらないのだ。
ひたすら辛い思いで、主人公は過去を追体験し、妻の裏切りを目撃し、息子の凶行を現認し、泣いて悶えるばっかりだ。
知らなかった嫌な現実の詳細が、どんどんわかっていく。観れば観るほど、自分の人生がいかにろくでなしだったかが見えてくる。
旅の最後、ワゴン車親子の少年が訊く。「サイテ―でサイアクの、もうどうしようも無い現実に帰りたい?」
そう、ワゴン車から生きて帰れば、散々見せられたクソの山に戻るのだ。
それでも、主人公は戻ろうと思う。
「サイテ―でサイアクの現実だからね」
八つで死んだ男の子にさえ憐れまれる。
だが、それでいいのだ。
世の中はサイテーでサイアクだ。
だからこそ、それを受け入れた上で、痛みも苦しみも、自分自身のかけがえのない命として、憎しみながらも愛することができるのだ。
お父さん方が必ず泣く、と評判の本書、やっぱり私も泣いたのだよ。
ガストの窓辺で、どうしようもなく泣いたのだよ。
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